【まろにぃ(20代前半男性)の声】 私についての備忘録(2019年2月)

当たり前かも、ありきたりかもしれないけれど、僕は僕であり、僕でしかない。「1」が「1」であるように、「ダメなものはダメ」であるように、誰だって誰かであり、誰かでしかない。
最終的にはそうなのだけれど、自分の中に他の「自分」が存在する、といったことは、さして不思議でも、不可解でもないだろう。裏、表…それもちょっと違う。僕の場合は、僕をより俯瞰で、より客観的に見ているような人格。これを「私」としよう。例えば、「僕はAがいいと直感的に思えば」、「他の要素も鑑みた場合、Bの方が適切であるように私は思う」わけだ。もちろん一致することだってあるし、僕はどうも思わないから私が決めることもある。そういった「会議」の結果によって導き出される行動、思考。それが総合的な人格、すなわち「僕」であるように考えていた。けれど、総合的な人格としての「僕」の出した結論、行動を「私」が覆し、総合的な人格としての「僕」がウソをつくようなことになれば、「僕」は一体「誰」なのか。「僕」なのか、「私」なのか。「会議」ならぬ「懐疑」。
会議で言うなら、「僕」という人格への不信任決議。そして僕は、「僕」がウソをつくことが「私」の結論であり、正しさであるという、悪夢のような、(今思えばとても貴重な)矛盾の2年半を過ごすことになった。

あらかじめ断っておくけれど、他の諸先輩方が書かれているような、明確な目標とか夢とか、そういったものは、「福岡わかもの就労支援プロジェクト」に6ヶ月通った、今の僕には無い。これは僕にとってもどうしようもない事実で、誤魔化しようがないことだ。この先、どうやってこの世界に生きていくのか、僕自身が何をして日々を過ごしたいのか、それに関しては空白。文字通り、晴れ渡る空のように空白だ。
まあ待ってくれ。ここだけ読んでブラウザバックするのはちょっと待って欲しい。もちろん変化が無かったわけじゃない。諸先輩方と比較してちょっと明確さに欠けるだけだ。まず、なんと言ってもその空白に悲観しなくなったこと。以前の僕にとっての空白は、言うなら虚無で暗黒だった。何かスペースファンタジーじみた言い方になってしまったけれど。地に足はつかず、一寸先は闇。そんな空白を、現実的には何も変わってはいないけれど、若干希望のある表現、心情に変えることができた。
そして、もう一つの大きな変化。僕は今、フリースクールのボランティアに通っている。これもこの支援をきっかけに始めたものだ。子供と接するのは幼少期からの習い事のおかげで慣れているし、実際楽しい。けれど、先述の通り、それで生きていくつもりは無い。何で生きていこうか見当もつかないから、色々やってみる。それが出来ているのも、「福岡わかもの就労支援プロジェクト」のおかげだと思う。
相変わらず地に足はつかず、一寸先も見えないけれど、飛行機のように決まったルートが存在しない(存在したとしても、その通りに飛ぶのは難しい)以上は、鳥のように好きなように飛んでみようと思う。まあ、せいぜい「バードストライク」を起こさないように。

では、過去の僕の話をしよう。正確には、「僕」と「私」の話。僕が学校に行かなくなったのは、高校1年の2学期からだった。全員で同じことを同じ空間で行う「授業」という状況、クラスや、学校の喧騒。それらに言いようのない疎外感と、真綿で首を絞められるような息苦しさを感じた。「僕はここにいちゃいけないんじゃないか?」校舎の誰も来ない場所を探し、休み時間などはそこで時間を潰すようになった。
それから、休みがちではあったけれどなんとか進級し、2年生になった。2学期のある日、学校に行こうと思って、玄関で靴を履くと、左足が動かなかった。糸が切れたマリオネットのように、体が言うことを利かない。それから、全く学校には行かなくなった。学校、心療内科でのカウンセリングも受けたけれど、踏み込んだ質問には答えたくなく、心境や体調の変化は特に無かった。「『話す』ことは『離す』ことだ」とも言われたけれど、その言葉はむしろ、僕には逆効果だった。
誰も悪くない、僕だけの問題で、僕だけの苦しみだから、あくまで僕の中のエッセンスだけで考えたり、解決したりしたかった。だから、あまり他の人に僕のことを考えて欲しくなかったし、どんなに有意義な助言も受け取る気はなかった。
学校に行かなくなったことで、出席日数の不足による進級の取り消しという問題に直面した。(1年生のときはまだ余裕があった。)母からは留年や、転校も提案された。僕もそうしようかと思い、インターネットで調べていたけれど、「普通から逃げるな。」「高校に通うくらい当たり前に出来るだろう。」「お前は優秀なはずだ。」そう聞こえた気がして、気づけば僕は「左足が動かなくても、右足と両手は動くだろ」と、今考えれば常軌を逸した思考回路で、学校に通い続けることを決めた。
そこから先の約半年間は、何を考えていたとか、そういうことは断片的にしか覚えていない。とにかく辛かった。朝起きて、動かない左足に苦戦しつつベッドの上で制服に着替え、母に肩を貸してもらいながら車に乗り、正面玄関では車椅子を用意して出迎えてもらい、一度保健室で休ませてもらう。そこで体力をほぼ使い果たして大体眠ってしまう。起き次第、なるべく何食わぬ顔で教室へ行く。帰るときは、朝とは打って変わってすっかり元気だった。学校から家が近いので、頻繁に親友2人と暗くなるまでゲームをする。本当に辛いのはここから。学校についてからすぐ眠っているので、必然的に遅くまで起きていることになる。すると、昼間の疲れや、抑圧された感情がどっと表面化する。「お前は誰なんだ」と部屋で叫んだり、延々と洗面所で手を洗ったり、うめきながら部屋を延々と歩き回った記憶が、断片的にある。あまり覚えていないし、思い出したくない。
3学期に関しては出席単位数の関係で保健室すら使えず、満身創痍で朝から授業に参加し、閉まるシャッターをゾンビ映画の主人公ばりのスライディングで潜り抜けるように、3年生に進級した。3年生は、大学受験で3学期は学校にいかなくていいのもあって、2年生に比べれば楽に過ごすことができ、高校を卒業することができた。
卒業後は、「自分は疲れているから、とりあえず休もう。」と、将来のことは一旦度外視して、受験勉強はしないことに決めた。ほぼ使わなかった貯金で、ゲーム機を買ってゲームをし、友達のところに遊びに行ったり、一緒に旅行にも行った。
そうして1年と3ヶ月が経過し、「そろそろ将来のこと考えなきゃなぁ。やだなぁ。」と思っていた時に、母が紹介してくれたのが「福岡わかもの就労支援プロジェクト」だった。将来への危機感は感じていたけれど、自分で何かを探して、向かうエネルギーは無かった僕には願ってもいない話で、すぐに話を聞きに行き、加入を決めた。

週1回の鳥巣さんとの面談では、他愛も無い話をしたり、将来についての「提案」を聞いたり。鳥巣さんは、あくまで「提案」をしてくれている。伸るか反るかは僕次第でかまわない、考え方を強要するようなことも無いので、億劫にならずに通うことが出来ている。
月1回のイベントや、鳥巣さんに食事などで呼ばれたときは、積極的に行くようにしている。イベントは、参加者はみな同じようにここに通う受講生と、コーチや関係者の方ということもあって、さほど緊張もせず、何かウソをついて極端に疲れるといったこともない。(一部を除く友人とか、同級生なんかだとこうはいかない。)それでいて、他の受講生などと話したり、一緒に活動するのはやはり新鮮で刺激的だ。毎回楽しく参加できている。

この世界に生きるってことは「動く歩道」を逆走するようなものだと思う。前に進むには、結局「歩道」より速く走るか、何かの拍子に反対の歩道に飛び移って、先の先まで運んでってもらうしかない。そして、人には、走る速さにそれぞれ限界がある。僕は少し遅かったらしい。もしくは、トバしすぎてバテたのかも?
けれど、この場所は、僕にまた走るきっかけを、「スターティング・ブロック」をくれたように思う。
多様に変化する世界。「歩道」はいつだって、もっと速くなったり、もしかしたら、遅くなったりすることだってなくはない。その変化に「アダプト」すること。それは、平凡な僕にはどうしようもなく必要で、避けようの無い試練、「既定路線」なのだけれど。(まあ、「生きた化石」として生きるのもそれはそれでクールだけれど。)
今は、もう少しだけ、「歩道」の手すりに腰掛けて、「僕」と向き合い、「世界」の傍観者でいようと思う。もう、なるべくウソはつきたくない。
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